歴史の長さと人生の長さ3

 

さて、今回、私は古い友達と九州を旅行し、飯を食い、史跡を訪ね、長年会っていなかった親戚を訪問しました。それで結局、私は今回の旅行でそもそも何を目的とし、そして何を得たのでしょうか。

友人と旧交を温めると同時に仕事の取材をする(史跡を中心とする観光地訪問は、このブログや教材の執筆のネタになります)。また、久しぶりに親戚を訪ねるのは親戚付き合いの一環。これはハッキリしています。でも、それと同じくらい重要な目的がありました。

それは「人生の長さを測る」です。

日本人の平均寿命は、2023年時、男性が81.05歳、女性が87.09歳だそうです。こういう数字は、調べれば誰でも認識できますが、これを自分の人生に反映して「実感」できるか、はまた別の問題です。

人間、若い時は自分には永遠の時間がある、と錯覚しがちです。人生が有限だと頭でわかっていても、若くて健康であれば特に、自分が死ぬことなどあまり考えない。

年齢を重ね、徐々に自分の年齢に近い人が順番に他界していくのを目の当たりにし、自分の肉体の衰え等を実感していくにつれ、本当に人生が有限である、という事実が実感できるようになります。

 

↑ 吉野ヶ里遺跡で見た甕棺墓と銅矛。

さまざまな史跡を訪れると、人間の本質は数千年前と現在で、ほとんど変わっていない、ということが実感できます。

個人の本質が変わらない一方で、テクノロジーの発達の影響により、社会が変遷していく、というメカニズムも実感できます。

吉野ヶ里遺跡では、人類が食糧生産革命を通じ、人口の増加、身分の上下、富の争奪(戦争)、職業の専門化、などが起こった、ということが実感できました。

大宰府政庁や鴻臚館跡を訪れて、国と国のお付き合い(外交)において「大きくて立派な施設を相手に見せる」という、意外に子供っぽいことが実は、今も昔も重要とされている、ということが実感できました。

話は飛びますが、最近話題の書籍に『サピエンス全史』というのがありますね。

↑ アマゾン

この本によると、ホモサピエンスが、自分達より個別のスペックでは優れているネアンデルタール人を駆逐できたのは、現実には存在しない概念(認知革命)を通じて大きな集団を作ることができたからだ、とされています。

まさに「国家」とか、その威厳を示すために立派な施設を作る、等は、まさに「認知」を通じての集団の形成に他なりません。

産業革命が200年前に起こり、企業(会社)という名の、ホモサピエンスの大集団が大きな力を持つようになって、個人の存在は小さくなりました。

しかし、近年、IT革命が起き、より多くの個人が企業に依存しなくても仕事をすることが可能になってきています。つまり、ネアンデルタール人の復活ですね。

こうして過去と現在、歴史上の人物と自分自身を重ね合わせることにより、私は「人生の長さ」が実感できるような気がするのです。

私が、生まれ故郷の九州の親戚を訪れたり、家系図や自分の先祖に関心をいだいたりするのも、これが理由です。

社会と個人、世の中と自分を相対的に眺めてみる。これにより、自分の時間をどのように過ごすべきか、を知るヒントが得られる。そう思えるのです。

こうしてみると、私は「自分の得意なこと、好きなことをしたい」と思うのです。そして「苦手なことはしたくない、嫌なこと、人に嫌な思いをさせること、はしたくない」と思うのです。

極めて素朴な結論となってしまいましたが、真実とは実は意外に素朴なものではないか、と私には思われます。

お読みいただきありがとうございました。